或るとも無く、無いとも或る


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私の生まれた街の小学校はお寺の名前がついていた。

幼馴染がそこのお寺の娘さんで、

毎年、意味も分からず正月は鐘を突きに行ってました。

校歌を歌うたび、彼女の顔をみんなで見てたら

彼女はハズカシそうに、顔を伏せていた。

あれから、20年。

なんでだろうか。

坐禅をしてみたいと思うようになった。

なんのために?

無神論者ですけど?

自分自身に答えが見つからないまま、

とりあえず行ってみようと思い立ち。

今日、初体験してきました。

簡単な説明を受けて、座る。

説明をしてくれた人は、時期和尚。

私の後輩だ。立派になったなあ、ホントに。

思わず敬語になる。

1人。

ナニコレ?ほったらかし?

あ、足イタイ。

腰もイタイ。

誰もいない。メンドクサイ。

開始20分。

1人・2人と人数が増えてくる。

足イタイ。

腰もイタイ。

しばらくして和尚がやってきて、

坐禅を一緒に組む。

30分クールということで、

30分ごとに2分間の休憩タイムがある。

2回ほど繰り返したら、なんとなく気持ちが穏やかに。

「ああ、そういうことか。」 と納得。

最後は坐禅をしながら和尚がお話しをしてくれた。

幼馴染の彼女の父。子供の頃からなんか説得力のあった、

よくわかんないけど、面白くて深い話。

和尚「6月は水無月と言います。『無』という言葉は『ノ』に置き換えられます。

   ですから、水無月は『水の月』と読むんです。

   昔の人は、6月を水の音を聞きながら、ゆったりと身を任せて過ごしました。

   今、インターネットの時代ですが、いつでも世界と繋がれる反面、

   ゆっくり自分を見つめる時間がなくなっています。

   そんなときは、坐禅をしましょう。」

へええ。

あーそっか。そーゆーことか。

スッと心の中に、何かが入っていく。

或るとも無く、無いとも或る世界。

私の生まれる前には何も無くって、私の死んだ後にも何も無い。

とりあえずこの時間ぐらいは、全部一度忘れてみよう。

忘れようと思っても忘れられない。

だけど、不思議と坐禅をしてると。

一回、雑念が爆発してから、シンプルな自分になれるような気がする。

気のせいでもいいや。これって面白いね。

これから私は世界に出ていくと思う。

そして、そうやって考えれば考えるほど、

自分のルーツを大事にしたくなる。

或りのままの自分で。

今はゆっくり、自分を見つめなおす。

   


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